2025年2月28日
カレン(カイン)州南部のパヤートンズーは「三基の仏塔」を意味する。日本語地図には「三仏塔峠」「スリー・パゴダパス」「スリーパゴダ峠」などと記されてきた。我が愛用のビルマ語地図『ミャンマー連邦州管区地図』(1998林野省土地測量局発行)カレン州の頁には、市を表す●印ではなく、×印で「パヤートンズー山間道路」と表示される。
そこは、モン州のタンビューザヤッに始まる泰緬鉄道のビルマ側の終点だった。ビルマ人労務者の記録『死の鉄路』(1968リンヨン・ティッルィン著1981田辺寿夫訳 毎日新聞社)や、日本人鉄道兵の視点で描く『小説 泰緬鉄道』(1968清水寥人著 毎日新聞社)の舞台でもある。これらに、英国人捕虜が地獄の極限と尊厳の復活を語った『死の谷をすぎて―クワイ河捕虜収容所』(1962アーネスト・ゴードン1981斎藤和明訳 新地書房)や、実証的で綿密な『機密文書が明かすアジア太平洋戦争 泰緬鉄道』(1994吉川利治著 同文館)を併せ読めば、悪名高き鉄道建設現場の事象とその背景の多角的認識に役立つだろう。
2018年8月、わたしは中部マンダレーの図書館でビルマ語資料を渉猟した後、詩人Lの車でタンビューザヤッを目指した。新しい泰緬鉄道博物館ができたという。直線距離で400キロだが、バゴウ地域のパヤーヂーで進路を東に取ってカレン州に入り、国境の町ミャワディーで、林立するカジノ・ホテルの概観を眺めてから南下した。雨季の悪路の渋滞の中に、「パヤートンズー」という道路標識を目にした。 日本軍敗残兵が命からがら越え、1988年民主化闘争活動家たちがタイに逃れた歴史的な峠でもある。ふと立ち寄ろうと思い立った。
飯屋に居合わせた陽気な兵士たちは、DKBA(民主カイン仏教徒軍)の一員らしい。パヤートンズーはすぐだよという。1948年から反政府武装闘争を行ってきたKNU(カレン民族同盟)から分裂した一派が、1995年にDKBAを結成して「国軍」の軍門に下った。「国軍」は2008年憲法に基づき、その一部をBGF(国境警備隊)に再編していた。
灰色の空の下にのどかな平原が広がり、運動場でサッカーに興じる若者たちもいる。夕闇迫る頃着いたその峠には、立派な国境の町があった。入管事務所は閉まっていたが、タイ側の三基のパゴダが撮影できた。近くには草生した泰緬鉄道が顔をのぞかせていた。すぐ引き返すつもりが、勧められて宿に向かった。ところが、宿はタイ人と中国人しか泊まれないという。実直そうな入管職員たちが、当惑した表情を浮かべてやってきた。わたしが日本占領期文学を研究していて、鉄道跡とパゴダを見たくて来たと話すと、納得してくれた。翌朝5時に退去するよう告げられたので、即刻退去しますよというと、このあたりは悪い奴がたくさんいるから一泊したほうが良いという。翌日帰途につき、DKBAの看板のかかった小屋の前で兵士と写真も撮った。士気の低下した軍隊だという印象だ。検問所がいくつもあるのに、誰も我々を誰何しなかったと、Lもこぼした。彼も町の存在は知らなかったらしい。
不明を恥じて調べれば、2014年の国勢調査でパヤートンズーの人口は59841名。外国人居住者はゼロだ。しかし今年2月8日、DKBAは同市在住中国人に、28日までに退去するよう通告した。ミャワディー北方同様、同市にも特殊詐欺の拠点があったのだ。彼らは財政的ひっ迫から麻薬取引にも関わり、さらに中国マフィア跋扈を許したようだ。25日、人権団体JFM(Justice For Myanmar)はタイ政府にBGF幹部の早期逮捕を求めた。
一方16日に昆明で始まった「国軍」とTNLA(タアン民族解放軍)の停戦協議は早々と決裂した。「国軍」が協議中も空爆を続け、化学兵器も使用中だとTNLAは非難した。連日各地で空爆がある。標的は革命勢力拠点より避難所、病院、寺院、学校など民間施設が多い。25日には結婚式準備中の寺が爆撃された。それでも革命勢力支配下の町は94市となった。
南田 みどり(みなみだ みどり)=1948年兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語研究科南アジア語学専攻修了。大阪大学名誉教授。ビルマ文学研究者・翻訳者。