『赤い太陽』

2024年12月26日

 マウン・ミンヤー(1944-2024)が遺したのは、200頁余の詩集『赤い太陽』(1969年2月発行)一冊だけだった。表紙は有名な画家バヂー・アウンソウ(1924-1990)の手になる。そこではピンクベージュの地を背景に白い太陽が血を流していた。裏表紙では血痕を残した白い太陽の下で、男女が酒を飲み、その周りをムンクの「叫び」に似た3名がうごめく。3羽のハトは飛び立とうとして果たせず、一羽は方向転換して下に向かおうとしている。
 序を書いたのは、同郷のダヌピュー・チョートゥン(1938-2009、作家イーチャークェー)だ。序はその詩を「花の如く芳香を放ち、泉の如く涼やか」と称える。序によれば、マウン・ミンヤーは1959年からエーヤーワディー地域ダヌピュー市で、本名で詩を書き始めた。詩人の会を作り、寝食を忘れて活動し、高校卒業試験に2回落ちた。その後詩作を断って勉学に励み、ヤンゴン大学ビルマ文学科に入学した。マウン・ミンヤーの名で詩作を再開し、66年には大学のビルマ文学協会書記長と協会誌副編集長を務めたという。
 『赤い太陽』は、彼の60年から69年の詩76編を収める。65年から68年の詩が大半を占める。英緬戦争を題材とした「長詩」と王朝時代の悲恋を題材とした「小説詩」もあるが、4音節の定型詩が多い。注目すべきは、90年代から詩壇の主流に躍り出たモダンと呼ばれる自由韻詩の先駆けとなる作品が見られることだ。例えば次のような詩だ。
 「一日中/詩と一緒にいたい/一晩中/詩と一緒にいたい/一生涯/詩と一緒にいたい/ああ、、、死後の世界が/あるならば/きっと詩と一緒にいるだろう」(「詩心」1965年12月8日より)
 内戦が続き、合法社会と非合法社会に分断されたこの国で(ミャンマー便り24年11月25日参照)、58年の「国軍」クーデター時の言論弾圧、62年の第二次クーデター後の「国軍」によるヤンゴン大学学生自治会棟爆破事件、63年の共産党軍との和平交渉決裂後の政治活動家大量逮捕事件、64年の全政党解党令と全団体登録令の発布、65年の仏教徒反政府活動への弾圧など、60年代も市民はもとより、もの書く人びとは「ビルマ式社会主義」下の閉塞の中で呻吟を余儀なくされた。同書表紙の図柄からも、そんな血塗られた歴史が透けて見える。検閲が厳酷化した70年代なら、あの絵も日の目を見なかったはずだ。
 マウン・ミンヤーはわたしの文学研究の恩人だ。必要な書物を集め、わたしの喜びそうな記事を新聞雑誌から保存してくれた。寡黙な人だった。彼がカレン族で、内戦の時代に故郷で血なまぐさい見聞をしたこと、詩は書き続けているが発表せず、木箱の中にため込んでいることは、そっと教えてくれた。彼は23年1月に脳卒中で倒れてからは歩けず、片手も不自由で、この11月中旬から食べ物を受け付けなくなっていた。11月27日、80歳の誕生日の翌日に彼は旅立った。いわば幻の詩人だった彼は、今頃あの世で自由に詩を書いているだろう。わたしは、78年1月にシュエ―ダゴン・パゴダで撮影した彼の凛とした写真を添えて、SNSに追悼文を投稿した。『赤い太陽』を愛する人々が追悼パンフレットへの言葉を求めてきた。出来上がったパンフレットには、くだんの写真も掲載されていた。
 同じ27日、ICC(国際刑事裁判所)は、2017年のロヒンギャ・ムスリム迫害をめぐり人道に対する犯罪容疑で「国軍」最高司令官への逮捕状を請求した。強制徴兵の若者狩りは引きも切らず、連日各地で空爆も続く。12月17日現在の住民の死者は6060名だ。10月末まで延期された国勢調査が終了したとも聞かないが、選挙管理委員会は25年選挙が330郡のうち半数以下で実施可能だとのみ報告した。一方中国の「仲介」も何のその、AA(アラカン軍)は21日に「国軍」の西部軍管区司令部を制圧した。負傷者を含み、白旗を掲げたおびただしい「国軍」兵士の行列がSNSに溢れた。革命勢力支配下の町は91市となった。

 


 

南田 みどり(みなみだ みどり)=1948年兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語研究科南アジア語学専攻修了。大阪大学名誉教授。ビルマ文学研究者・翻訳者。