「文学者の日」

2024年1月19日

 「1027作戦」(便り23年11月20日12月25日参照)に目を奪われ、失念していたが、ビルマ暦9月白分1日は「文学者の日」だ。ビルマ暦は太陰暦だから、太陽暦とずれがある。「文学者の日」も毎年異なる。ビルマ作家協会が「文学者の日」を創設した1944年、それは11月15日だった。11月から12月にかけて文士劇、文学講演会、弁論大会などが実施され、文学賞も授与された。それが現在の国民文学賞の前身とされる。ビルマ語小説は、英領期に授与の対象とならず、日本軍の支配下で初めて文学賞が授与されたのだった。
 43年出版書籍から選ばれて作家協会賞を小説部門で受賞した『刀』(ミンスエー1910-49?)は、41年末の開戦前夜から43年8月の「独立」までの首都を主要舞台とする。由緒正しきビルマ族の伝家の名刀を携えた主人公は、少年時代をタイや日本で過ごした。彼は、日本軍の侵略を円滑にすべく、親英派を葬り去るテロリストとして侵略前夜ビルマ入りし、日本軍の占領後はビルマ軍将校となる。作者ミンスエーは彼に、大東亜共栄の理想ではなく、生きて虜囚の辱めを受けず、抵抗して玉砕する美学を語らせる。最後に、満身創痍の彼は「独立」記念行事に沸く首都を後にして、戦場に向かう。ミンスエーはユーモア小説も書いたが、美しく有意義な死にもこだわった。彼は死による国家への献身に憧れ、「日本魂」をビルマ国家建設の精神的支柱に転用しようとした。同時期の長編『復讐』(1943)で彼は、「役立たず」は国家に不要で、国家のための死は健康な人間のみに許されると、独自の優生思想をも披歴した。そんな彼が49年に消息を断った。持病を苦にして自死したと見る向きが多い。ただ、家族はそれを認めようとはしていない。2003年にわたしは、長男の編集者A(『ビルマ文学の風景』198頁参照)宅を訪れた。家族一同ミンスエーを大層誇りにしていた。貴重な資料も沢山コピーさせていただいた。昨年末のフェイスブックで元編集者Aの死を知った。ビルマ人男性にしては長寿の83歳だった。めい福を祈りたい。
 1948年の独立後、ビルマ政府は文学振興を国家的事業と位置づけ、正式に文学賞を発足させた。2023年の「文学者の日」は12月13日だった。「首都」ネーピードーでは国民文学賞授与式が挙行された。2022年出版書籍754点から選ばれた受賞作は、19部門中11部門の11点。長編小説部門と短編集部門は空白だった。「クーデター」以降の小説受賞状況を振り返れば、2020年出版書籍は長編小説部門で、2021年は短編集部門で受賞作が出た。長編小説・短編集部門とも受賞作がなかった年は、1973年、79年、83年、84年、89年だった。各年の社会的事象と照合すれば興味深い発見もあるはずだ。33年ぶりに長編小説・短編集部門ともに受賞作が空白となった2022年もまた、それなりに銘記すべき年だった。
 ところで気になるのは「停戦」だ。12月末期限の「停戦」協定は早々と破られ、12月28日にMNDAA(ミャンマー民主民族同盟軍)はコウカン族自治区ラウカイン市を制圧した。1月11日、昆明で中国外務省がまたもや仲介してシャン州北部が「停戦」に入った。中国は「国軍」に体勢立て直しの機を与えたのだ。「三兄弟同盟」は声明で「停戦」が「余儀なき事情」によると述べた。中国領内の同組織幹部の在留許可、銀行口座、中国からの武器ルート、中国統制下のビルマ最大の少数民族武装組織UWSA(ワ州連合軍)からの援助などを中国が凍結するのを怖れ、彼らも譲歩したのだと囁かれる。一方各地域では激戦が続き、「国軍」の戦争犯罪も絶えない。投降者も増加の一途だ。西部ラカイン州では、14日に要衝パレッワ市を制圧したAA(アラカン軍)総司令官が、15日のツイッターで「死にたくなければ白旗を上げよ」と呼びかけ、16日にチャウトー市の「国軍」が投降した。シャン州北部でも16日と18日に、KIA(カチン独立軍)が「国軍」戦闘機を撃墜した。ミンスエーが憧れた「美しく有意義な死」は、どうやら「国軍」には無縁のものとなり果てたらしい。

 


 

南田 みどり(みなみだ みどり)=1948年兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語研究科南アジア語学専攻修了。大阪大学名誉教授。同外国語学部非常勤講師としてビルマ文学講義も担当中。