客死

2026年7月26日

 6月19日、作家ミンカイソウサン(1972年生)の早すぎる死に驚いたのは、わたしだけではあるまい。彼の作品と出会ったのは、短編が月刊誌上を賑わせた1990年代だ。再録短編集が多数出版された。カチン州の文学愛好グループ「北の月」も、1996年から2011年まで、月刊誌から厳選して毎年短編集を出した。良質の作品を息長く書き続けるには過酷な状況下、書き手の隆替も激しかった。彼の作品は、16年間で2回選ばれた(拙著『ビルマ文学の風景』136-137,292-293)。「ピカソ」(1996)は、脳髄の中に映画が流れる奇病に罹患した友について医師が語る。「千両役者」(2010)は、山岳地帯へ「雪男狩り」に出発する車の屋根で踊る若者たちの顛末を描く。いずれも、軽妙洒脱なビルマ流モダニズム作品だ。
 彼はヤンゴン生まれで、両親は高校教師だった。難関ヤンゴン第二医科大学に入学を許可され、1989年に短編が雑誌に掲載された。病院勤務の傍ら、長編、短編、詩を書いた。後年はシナリオも手掛け、人気テレビ番組やテレビドラマも監督した。複数の筆名でホラーや探偵小説も出版し、検閲に呻吟する純文学界を尻目に栄達を極めた。純文学に厳酷な検閲は、エンタメには寛容だった(『ビルマ文学の風景』72,122など)。
 2011年、わたしは次の短編集出版に向け、新しい作家の開拓に努めていた。8月の雨の中、ヤンゴンの彼の家を訪れた。家族の姿はなく、広い邸宅には、目つきの鋭い数名の男性助手の姿があった。彼の部屋だけ冷房が効いていた。「とにかく書きたいんです。(民主化闘争が弾圧された)88年には、煙草の巻紙の裏にも書きました」と、彼は童顔をほころばせた。洋書と煙草を好み、しばしばタイや香港に出かけるという生活ぶりは、大多数の市民とは懸隔していた。スタッフのいる別室からは、幾度となく電話の着信音が聞こえた。旋律はミャンマー国歌だ。どうやら「愛国者」の集団だ。彼の過剰な執筆熱は、すでに本人の手を離れ、エンタメ製造機の歯車の一部と化していたのだろう。以来彼とは会っていない。
 SNSの追悼投稿によれば、彼が3年前からサンフランシスコに滞在していたことを知る者は僅かだった。彼は作家仲間との絆を断っていた。在米20年の医師作家N2も、ヤンゴン時代に2回会った後は疎遠だったという。彼女は、彼が収入や名声を優先させすぎたと見ていた。21年の「クーデター」の前に、見解の相違で彼の映画の音楽監督を降りた音楽家Hの投稿も興味深い。それによれば、死の1か月半前に彼の妻が電話してきた。最後の長編の出版元を探しているという。「国民文学賞受賞者の作品は、誰も出版したがらない」とHは伝えた。彼の短編集『不器用物語』が21年度国民文学賞を受賞していた。「クーデター」後の同賞は、「国軍」派作家に授与されるというのが文学関係者共通の認識だった。妻の話では、22年11月の文学賞授与式前夜、彼はヤンゴンの自宅からパジャマ姿のまま首都ネーピードーに車で運ばれ、盛装させられて授与式の席に座ったという。たしかに当時の新聞写真の彼の表情からは、生気が失せていた。これを機に彼は国を出て、酒に溺れたというのが妻の説明だった。死因は肝臓がんだといわれる。
 祖国を離れるミャンマー市民は増え続ける。異郷で最期を迎える客死者も珍しくはない。厳しい出国制限の中で、彼が渡米できたのは幸運と呼ぶべきだろうが、彼が求めていたのはそんな客死だったのだろうか。彼の古い飲み友達の詩人M6は、彼を時代の犠牲者と呼んだ。しかしその死を、「国軍」の惨殺や連日の空爆の犠牲者と同列視するには無理がある。
 さて6月30日、いかさま政府新任女性報道官による記者会見を目にした。アウンサンスーチーが元気だと述べた彼女は、日本政府にはODA「再開」を求めた。厚顔無恥に過ぎる。「クーデター」後も既存ODAは停止されていない。いかさま政権を利することのない人道支援事業を除き、実施中のODAも停止すべきところだろう。6月末から各地で夜間に、独立の父アウンサン将軍の銅像が撤去されてきた。報道官は、サイズが規格に合わないとの理由をあげたが、アウンサンスーチーを憎悪するいかさま大統領の指示だったことが後日判明した。ヤンゴン大学学生虐殺事件64周年の7月7日、ザガイン地域の解放区やヤンゴン市内某所で追悼行動があった。「殉難者の日」79周年の19日(両日とも本便り24年7月31日参照)、いかさま政府は例年通り殉難者廟での追悼行事を執り行った。アウンサンらが暗殺された10時37分、ヤンゴンでは例年通り停車した車がクラクションを鳴らし、国内各地の革命勢力や在外市民も追悼行事を行った。国民の休日であるこの日、ラカイン州では3郡に空爆があり、5名が死亡、僧侶と子どもを含む22名が負傷した。

 


 

南田 みどり(みなみだ みどり)=1948年兵庫県に生まれる。大阪外国語大学外国語研究科南アジア語学専攻修了。大阪大学名誉教授。ビルマ文学研究者・翻訳者。